即興の旬(?)

猛烈に即興が聴きたくなり、東西のボックスを聴き散らかしている。西のFestival Beyond Innocense(4枚組、以下FBI)と東のImprovised Music From Japan(10枚組、以下IMJ)。どちらも10年以上前のアルバムだが、今でも刺激と(そして親しみを)感じさせる。

即興はライブ現場、これに勝るものは無い。音楽だけでなく奏者のようすと、場の空気。三位一体でこそ楽しめる。
だが現場にて生まれ消え去る一過性だけでは惜しい。追体験や歴史も楽しい。そこが音盤の価値となり記録の重要性である。
瞬間で消えていく記憶を深めるべく、現場へ立ち会えなかった不運を嘆かず、がっちりと音楽へ向かい合うために。

しかし即興は非常につかみづらい。長尺でがっつり音に浸るもよし、短いエッセンスを聴き繋ぐもよし。FBIとIMJ、微妙にニュアンスの違いある。少なくともアルバムでFBIはセッションと短尺を志向する。アンサンブルの妙味と、次々に風景を変える形で。
いっぽうIMJは長尺を恐れない。ソロ、というより個々のインプロヴァイザーの音色へ着眼し、アンサンブルはあくまで結果論のように見える。

ここではもちろん、東西の是非は問わない。両方楽しいし。むしろ考えていたのは、即興の新奇か安定か。ベテランのインプロヴァイザーの場合、聴くときにあらかじめ出音のイメージを持って聴く。そこでは予想外は有っても想定外は低い。
若手、もしくは初めて聴くインプロヴァイザーの場合は、出音を想像して聴く。このとき意外な喜びか期待外れか、どちらかを味わう。

ぼくは即興演奏に何を求めてるんだろう。予想通りの音を現場もしくはアルバムで追認し安心を覚えるのか、まったく新奇な音で好奇心の活性化を図るのか。
たいがいはあまり深く考えず、音楽を楽しんでるだけだが。

そして冒頭の投げかけに戻る。即興音楽に旬はありやなしや。インプロヴァイザーに旬はありやなしや。結論は、どちらももちろん無い。
聴き手側の旬はあるかもしれんな。時代とか流行の意味じゃない。それは聴き手に何の関係もない。

出音に興味を持てなくなったとき、聴き手の旬が終わる。長尺で退屈ゆえの「もういいや」かもしれないし、「今これを聴きたくない」の瞬間的な興味かも。あるいは「この手の音楽は飽きた」と燃え尽きかもしれない。
ひるがえると、この判定基準に音楽は影響を与えていない。音楽は変わらずそこにあり、聴き手の興味だけが変わっていく。

ぼくは奏者でなく聴くだけだから、こう考えるのかもしれない。

ではなぜ冒頭の投げかけをしたか。今回10年以上前の演奏を聴いてて、恐ろしく新鮮に聴けたからだ。FBIもIMJもほとんどの奏者が未だ現役で活動している。言いかえよう。そもそも両コンピに参加の奏者は音楽的な疾走を、当時から今も続けている。

だから好奇心を持ち続け聴き続けたい。問題は、聴き切れない・・・。
ベテランの今を聴くもよし、過去にさかのぼるもよし。新しい現場や奏者を探すもよし。
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