"ダンシング・ミスト~菊地雅章イン・コンサート"(1970) 菊地雅章

30年早かった。菊地雅章の先駆性が鮮やかに結実した傑作アルバム。

 この盤を聴いたのは最近になってから。あまりの先駆性に呆然となった。根本はマイルス・デイヴィスか。"Bitches Brew"(1969)の翌年がこれ。あっという間に咀嚼し、菊地は独自世界を表現した。"POO-SUN"(1970)収録の2曲を同年11/13、東京サンケイ・ホールでライブで披露した。その長尺演奏を各面1曲でLP化が本盤だ。

 何が先駆的か。ダンスを狙った大編成ジャズ。その片鱗をダブル・ドラムで閃かせた。どこまで菊地が当時に、クラブ・ジャズを意識してたか分からない。だが今の耳で聴くと強烈なグルーヴと、一抹の古めかしさが混在する本盤は壮絶な魅力を持つ。

 ビッグ・バンドとは別の大編成ジャズは、本盤の約10年後まで待つ必要がある。それが生活向上委員会やイースタシア・オーケストラが存在した。だが彼らはフリージャズなどを下敷きに、クラブ・ジャズ的な発想は希薄だった。
 本盤の近似はむしろオーネット・コールマン"Dancing in your head"(1977)に感じる。それでも本盤の7年後。

 本盤の音楽性に近しいサウンドは、日本だと約25年待つ必要があった。すなわち、4つのバンドらが登場するまで。
 突然変異な90年代後半のボアダムズ。
 アプローチは異なるが、一周回って近似な渋さ知らズが89年に登場する。
 ボアから山本精一が合流し、プログレ経由のミニマリズム路線で96年にROVOが結成。
 そして菊地のコンセプトを見事に蒸留して、菊地成孔がDate Course Pentagon Royal Gardenを99年に始動させた。この時点で、本盤発売のすでに29年後。
 
 だが実際にこれらのバンドがダンス・バンドと観客に位置付けられたのは、さらに数年後の00年代初頭の話だ。この時代でも、本盤は滑らかになじむ。その先駆性が素晴らしい。

 もっとも上記の4バンドは素直にクラブ・ジャズを志向しなかった。ボアはすでに活動停止状態だし、そもそもがジャズの香りは非常に希薄だ。
 渋さ知らズはフジロックなどで熱狂オーディエンスに迎えられながらも、その無思考な狂騒を良しとせず、さまざまな試行錯誤を繰り返し、ダンス・バンドから脱却を図った。 ROVOはダンスと親和を図るもジャズ的なダイナミズムは薄い。
 そこで菊地成孔だ。彼の取捨選択の審美眼と着眼点は強烈に美しい。話がずれるのでここでは多くに触れないが、菊地雅章の本盤、そして"Susuto"(1981)に続くグルーヴ路線から"ポリリズム"を切り口に、DCPRGでは鮮やかな別世界を見事に構築した。

 とはいえ菊地雅章は、00年代は本コンセプトを00年中頃当時にはやめていた。"Susuto"(1981)から"All Night, All Right, Off White Boogie Band"(1989)で、独特のファンクネスを捨て去った。見事に時代を先行し、いち早く去っている。

 本盤はA面とB面で全く違うアプローチをとった。A面"Dancing Mist"がアップテンポ。ここで菊地が観客を躍らせていたら、時代は変わっていた。だがLP 2枚組の"All About"Dancing Mist"(1971)で聴けるように、当時は手拍子が精いっぱい。下に貼った動画の左側が、それだ。観客の足か頭も揺れていたろうが、ダンスフロアにはならなかった。不思議だ。ゴーゴーとか、ダンス文化もあったろうに。客層が違ったのかな。

 A面はモーダルの極致。鍵盤のテーマは3音だけ。A、A♭、G。ベースがブイブイと単音で鳴らし、シンプルなフレーズが強烈なドライブ感を出す。サックスのテーマでは和音転換もあるが、ソロ回しではたぶんワンコードだ。
 6人編成にも関わらず、とても大編成の片鱗を感じさせるのは、ドラムと鍵盤がダブルなこと。複合リズムを基礎に、菊地自身にとどまらず新たに鍵盤を加えたのが斬新だと思う。
 マイルスも複数鍵盤はやってたが、レイヤー風の印象を受ける。菊地のソリスト二人って鍵盤対決の視点とは異なる。

 菊地は本盤でモーダルなシンプルさでソロの追及が狙いだったのかも。延々続くソロこそが、今聴くと古めかしい。もっと正確には、ベースやリズムがミニマルにとどまらずフレーズ展開してしまうところが、古めかしい。
 メカニカルなビートの無機質さと、有機的なソロの対比。これが厳密に繰り出されてたら、たとえ同じ長尺ソロでもぐっと今に通じる普遍性をもたらしてた。
 だが当時、自分のエゴを殺してバッキングに徹することは不可能か。
 であるがゆえに、ソロからテーマに戻りシンプルなリフが突き進む頼もしさが、本盤で変わらぬ魅力を放っている。

 終盤で思い立ったかのようにテーマへ戻り、だれ気味に終わるのがご愛敬だ。

 B面はバラード路線。同じく"POO-SUN"(1970)収録の曲で、A面とはガラリ風景を変える。この対比も、今となっては逆にコンセプトがあいまいになっている。バラエティさを追求のために、厳しさが和らいだ。その点単一曲のバージョン違いをLP2枚に収めた、"All About"Dancing Mist"(1971)での徹底したグルーヴ路線は潔くも大胆な魅力を持つ。

 B面は小節線をあいまいにしたかったように思えてならない。冒頭から、明確に4拍子はわかる。ドラムが、ベースが、ピアノのフレーズが、断片的に絡み合うように拍子をとっていく。
 だがピアノの根本は小節線の縛りからたやすく解き放たれている。アクセントも譜割も拍頭とはずれて聴こえた。この路線を追求が、テザード・ムーンではなかろうか。

 この曲も、途中でリズム隊が反逆する。ピアノの冷徹さを最後まで維持し、サポートしたら時代を超えた完成度を保ったろう。
 菊地は最後までクールに奏で続ける。けれども他の奏者は盛り上がってしまった。それが瑕疵であり、聴きどころでもある。特にドラムのアクセント。拍頭と違う位置で叩き続ける。明確なビート感は継続するのに、小節線がすごくあやふやだ。この点は、興味深い。

 結局本盤は、良くも悪くも菊地のコントロールが行き届かないために拡散している。そして後年に至るまで理想を持ち続けても完成するまで披露しない完璧主義でないところが、菊地の魅力であり破綻っぷりだと思う。
 コントロールしきらぬ点も含めて腹に飲み込み、最後の最後でピアノは独自に弾いて全てをひっくり返す。その独断専行ぶりが、菊地の魅力であり限界だった。

 菊地はバンドを盛り立てることはなく、ましてやシーンを牽引する気はさらさらなかった。目線は自分のやりたい音楽を、やりたいようにやるだけ。その自由さが彼の魅力であり、玉に傷だと思う。
 この盤を聴いて、そんなことを考え続けていた。

[Song List]
1.Dancing Mist
2.Yellow Carcass In The Blue

[Personnel]
菊地雅章(elp)、峰厚介(ss)、菊地雅洋(harpsicord, org)、池田芳夫(b)、村上寛、岸田恵二(ds)

 

関連記事

コメント

非公開コメント