文学とはなんじゃい。

「あのね、ひとつあいつにこう聞いて御覧、おまえはぼろぼろになった風呂場のヘチマが好きかって、ね、そう言って聞くんですよ」
・・・これが子供のセリフだ。

中山省三郎の訳で1975年出版の"カラマーゾフの兄弟"をi-phoneで通勤中に読んでいる。とりあえず3割ほど読んだ。
とにかく非常に読みづらい。セリフがたまらん。冒頭のセリフ、翻訳としては正しいのかもしれない。しかし小説としてどうよ。


時代とか当時の語り言葉とか、あるにしても。ちょっとなんか、非常に読みづらい。読み始めて分かるように、ドストエフスキーは不思議なユーモアがある。本書でもギャグがいくつも。130年前の小説なのに。

あと、新発意(しんぼち)って言葉が何度か出てきた。なんだこりゃ。
「菩提心を起して仏道の修行に入ること。浄土真宗では,得度した若い男子を新発意と呼ぶ。」って意味らしい。修道院へ行くのに、仏教用語を使われても。

いわゆるエンタメみたいな分かりやすい描写や、スムーズな文章構成を求めてはいけない。しかしドストエフスキーは多分、本書を実験小説として書いていないはずだ。
ならばせめて内容に集中したい。文学とは読みづらい文章と、間のとんだ展開の行間を読むことではないはずだ。そんなのはせいぜい、中学の国語まで。

やっぱ最新訳で文学っつーのは読むべきかなあ。いいかげん、放り出したくなってきてる。
内容は面白いのに。しかしキリスト教の知識なり親近感なりが無いと、いまいちぴんと来ない。

"七 論争"の最後で、こんなセリフがある。
「(拷問を避けるために「改宗する」と言ったところで)どれだけ悪いことでしょう? ですから、わたしは神様のお慈悲を当てにして、何事もきれいに許していただけるものと、どこまでもそう思っているのです」

もうちょっと前段の説明が無いと分かりづらいか。無神論の主張をする一方で、最後の最後に「神様のお慈悲」って言葉出るところに、奇妙なロジックの矛盾がある。
これはドストエフスキーの皮肉なのか、当時のロシアでは普通の考えだったのか。どうせだったら、その辺を考えながら読みたい。

ところが、翻訳文章の堅苦しさの方に気が行ってしまう。ああ、読みづらい。

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